トランプ大統領とマッカーシズム(赤狩り)のジョセフ・マッカーシーとをつなぐロイ・コーン

ドナルド・トランプは、大統領選で共和党の大統領候補指名争いの段階で、ライバルのテッド・クルーズ候補に、1963年のケネディ大統領暗殺事件直前に撮影された写真にオズワルド容疑者と一緒に映っている人物がクルーズ候補の父親であるとするタブロイド紙の報道があり、クルーズ批判の格好の材料として利用し父親が関与していたという汚名を着せた。

口げんかはとにかく言った者勝ち。最後に勝つのは正義の士ではなく、嘘でもハッタリでも声高に述べたてて、より多くの注目を集めた者なのだ!

そんなトランプ流のやり口は彼のオリジナルというわけではない。それはまさしく、若きトランプが師事したロイ・コーンのやり口であった。

ロイ・コーンは若き検察官だった1950年代にジョセフ・マッカーシー上院議員の右腕として“赤狩り”を進め 、その後弁護士に転じて政治家、著名人からマフィアのボスに至るまでの法廷闘争を相手構わずに引き受け、勝つためなら手段を選ばず容赦や慈悲の欠片もないやり口で恐れられる一方で勇名も轟かせた。その後、隠れゲイとしての生活を送るなかAIDSを発症し、過去の裁判での倫理違反を問われて弁護士資格を剥奪されるなかで病み、1986年に59歳で没した。

コーンの最晩年の恋人で、トランプとも親交があったピーター・フレイザーは、

「ドナルド・トランプの言葉の端々に、まぎれもないロイの声を感じるんだ。虚勢を張るところや、何であれ声高に大仰に言い続けていれば、やがてそれが真実になると信じているかのような物言いなんかは、まさしくロイ・コーンそのままだよ」と。

ドナルド・トランプがロイ・コーン弁護士と出会ったのは1973年、27歳のとき。

ペンシルベニア大学を卒業して父親の不動産会社に入社し、後継者としてニューヨーク地区で積極的に事業を続けていたころ、トランプは手がける物件の入居審査で人種差別を行っているとして、司法省から訴えられた。

トランプ所有の39の物件で、部屋を借りたいと申し込んできた黒人を締め出すために、Cという秘密の符号を書類に書き入れる慣行が続いていることを司法省は暴いた。Cはcolored(有色人種)の略であり、紛れもない人種差別で、公正住宅法違反だ。

ここまで明白な人種差別行為を暴かれては、いかに老獪な不動産業者だろうと廃業に追い込まれかねない。若きドナルド・トランプは懸命に弁護士を探し回った。しかし、「弁護士事務所を訪ねるたびに返ってくるのは、『そいつは厄介な案件だな』という答えだった」と、当時トランプは語っている。ところが、あるパーティーでロイ・コーンと初めて会い、裁判のことを切りだしたところ、「ああ、それなら間違いなく君の勝ちだよ。司法省のやつらを怒鳴りつけて、差別をしたというならそれを証明してみろと言ってやれ」と、そのユダヤ系弁護士は答えたのだ。

ドナルド・トランプはそれを聞いて安堵し、ロイ・コーンに弁護を依頼した。そしてトランプは、被害額1億ドルの名誉毀損で司法省を逆に訴え、記者会見を開いてその旨を大々的に公表したのだ。まさしくロイ・コーン流の反撃のやり方だった。そしてトランプは罪を自白することもなく、裁判に勝利した。

それ以来、若きトランプは老獪なコーンを師と崇め、仕事上のパートナーとして親交を結んだ。ニューヨークの犯罪組織や古くからの商売人にも顔の利くコーンのツテを生かすことで、トランプは不動産ビジネスを地盤のクイーンズ地区からマンハッタンへと広げることができた。そうして1983年完成のトランプ・タワーをはじめとするトランプ資本の高層ビル群が立ち並ぶ時代を経て、コーンの死去に至るまでふたりの親交は続いた。

ロイ・コーン

ロイ・コーンは1927年、ユダヤ系の両親のもとにマンハッタンで生まれ、20歳でコロンビア大学ロースクールを卒業する秀才ぶりを発揮して連邦検事補となる。そして1951年、ユダヤ系アメリカ人のジュリアスとエセルのローゼンバーグ夫妻が原子爆弾製造の機密情報をソビエト連邦に売り渡していたとされるスパイ事件の裁判で、容疑者となった妻のエセルの弟であるデイヴィッド・グリーングラスにウソの証言をするようにはかり、ローゼンバーグ夫妻を電気椅子送りにする判決を導いた。冷戦時代のピークだった当時、この裁判は大きな反響を呼んだ。

ローゼンバーグ事件での活躍がFBIのフーヴァー長官の目に留まり、長官の推薦によってコーンは、ジョセフ・マッカーシー上院議員の主任顧問を務めるようになる。そして、当時“マッカーシズム”と呼ばれた共産主義者とそのシンパへの容赦ない糾弾を二人三脚で推進する。マッカーシー議員の耳元に若いコーンが囁きかける写真は、両者の密接な関係を如実に物語るものだ。

マッカーシーはその後、アメリカ陸軍内部にまで追及の手を広げたことでアイゼンハワー大統領の怒りを買い、全米にテレビ中継された公聴会で陸軍側の弁護士に「あなたには品位というものがないのか」と問われた有名なシーンを経て失脚するのだが、マッカーシーの側近ディヴィッド・シャインの恋人だと噂されたコーンがその青年の徴兵逃れに便宜を図ったことも追及材料になり、コーンもまた職を追われた。

コーンはその後、ニューヨークに戻って弁護士事務所に入り、弁護士に転身する。そして友人たちがホテル・アスターで開いてくれた帰郷記念パーティーで、「ロイはアメリカ版のドレフュス大尉だ※」と紹介されるなどして人心をつかみ、人脈を広げた。

ドレフュス大尉:ユダヤ系のフランス陸軍大尉で、1894年に冤罪のスパイ容疑で逮捕拘束された。

この人脈こそがロイ・コーンの資産にして武器だった。ロイ・コーンは味方と見定めた人物にはどんな協力も惜しまず、ドナルド・トランプへの弁護活動においても、自分が資金繰りに困っているときを除いて料金を請求することもしなかったという。そして敵に対しては、相手を見て縦横無尽に戦い方を切り替えた。「法律の規定うんぬんなどには興味はない。私が知りたいのは、判事が誰なのか、そのことだけだ」と、過去に語ってもいる。

ロイ・コーンは最晩年にAIDSを発症するなかで、弁護士資格を剥奪される。フロリダの病院で瀕死の床にある大富豪の病室に忍び込んで遺言状を改ざんするなど、職業倫理に欠けた過去のさまざまな行状を指弾されてのことだ。一定の距離を保って利用していたドナルド・トランプだったが、そのとき信義を守り、公聴会でコーンを弁護する証言をした。また、資格を剥奪されて住む家も失ったコーンにホテルの一室をあてがい、そこに住まわせもした。そうしてトランプの庇護下で、ロイ・コーンは永眠した。

それから30年を経て、ドナルド・トランプはアメリカ大統領選に勝利した。

30年以上も前に死んだロイ・コーンは、いまなおドナルド・トランプに影響を与えつづけている。

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